ぽひゅすえー

ラジオをぼええと聞く。

 磯崎憲一郎先生が、「1970年代に文学が政治のもとになっていた」と言ふ説を展開。磯崎説では「今なんか本ていうと自己啓発とかばっかで、僕の本を読むための教養持ってないまま磯崎なんちゃらの本読んで「わけがわからん」とか言ってアマゾンで☆低評価」とか言ってゐる。この人の胸へ素直に飛び込めないが、

 磯崎先生がのたまふ、文学で政治ができる=藝術の一環としてノモスはまだ現役だと思ふのだが、多分それをやってゐた、東京都知事石原慎太郎大先生は、大体「小説家が小説書く一環として都政やってる」筈であったが、後半から「小説でなくて政治」を多分始めてると思ふ。田中角栄大先生の本まだ読んでません。

 長野の人としては「田中康夫先生はなあ」を言はんといかんのだが、あの人の県政もさういふ一環でいいと思ふけども、あー。

 へうげもの、も無粋なおっさんとしての徳川家康がアレしてゐるのである。

 

 『真田丸』 お姉ちゃんがアレする。真田パパは大変である。あ、徳川家康公だ。

 豊臣秀吉石田三成は、いはゆる「鷹揚な上司と冷徹な部下」といふ理想的なアレに見えん。主役ぢゃないからなぁ。しかもその下でサーヴァイブする中小企業の人が主人公だし。なのでいろいろ大変。